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イェアスティアラの観測所

思った事とかまぁなんか色々、悪魔憑きが書く。

明天再生の不確定原理

タイトルに意味は(以下略

 

なんとなく記事を書くボタンを押してしまったが、特に書くことがない。

なので、後輩がちょっと前に憤っていた事についてちょっと書いておく。

 

あたいは和平世の日本は調布にある、留年率が3割くらいある(らしい)大学(Twitterアカウントを見るまでもなくバレそうだが、別に隠さなくてはならない程の事でもないのでスルー)にいて、見事に1年事故ったわけだが、残念な事にその後輩も留年してしまった。

まあそれは最早どうにもならない事なのだが、その後輩の同期の言い方が気に障って仕方ないのだという。

その人は卒研も特に大きな問題もなく、次の3月で無事に卒業できる見込みで、何とも喜ばしい事であるのだが、その彼は「自分は留年率が3割ある大学をストレートで卒業できるからすごい」と言いふらしているらしい(多分この辺はその後輩の私怨も少し入っているように感じた)。

 

なるほど憤るのもよく分かる。

少なくとも日本の認識は「大学は4年で卒業するもの」であって、例え留年率が3割あろうと大学を4年で出るのは普通の事である。

寧ろおかしいのは我々留年勢の方であって、それが多いからと言って4年で出た人にそこまでの付加価値が付くのか、と問われれば疑問に思う(付加価値が無い、というのも疑問には思うが)。

なんというか、「すごい」と言うのは、普通でない事に対して使う言葉のように思う。

海外のように、学位を取得する平均の年齢よりもはるかに若い年齢で学位を取った、とかなればそれを「すごい」と思うのも確かに理解できる。

最も、留年率が3割ある大学を普通と呼べるのかは甚だ疑問ではあるので、分からんではないが。

 

どうでもいいけど、場所にもよるらしいが、アメリカの大学は在学していた年数ではなく、取得した単位に応じて学費が必要になるらしい。日本とアメリカとで、何に対してお金を払っているのか、という事が鮮明になっていてちょっと面白い。

この辺の価値観の違いというのは、観測していて面白いので、注意して見てみる事をたまにやってみると良い。

 

価値観の違いというと、大分前だが、死刑の存続で相当に議論が起きていた覚えがある。

この手の議論は、「犯した罪は例え重くとも生きて償うべき」と考える者と、「重い罪は生命を以って償う以外にない」と考える者に分類されて議論されるが、あたいはそれでは足りないように思う。

例えば、生きて償う、にも様々なやり方があるし、そもそも自由を剥奪する事が罪を償う事になると考えていない人もいる。

生命を以って償う、にも、現行法のように絞首によって即座(と言っても、法務大臣が決裁しなければ執行されないのである程度の期間は存在するが)に行われるべき、と考える人もいるし、生涯の自由全てを剥奪する事(つまり終身刑)こそ生命を以って償う事、と考える人もいる。残酷な発想になれば、それこそ拷問紛いの事をして大いに苦しませて死なせるべきだと考える人もいる(現行の憲法の下でそんな事が許されてたまるか、という話だが)。

つまり、そう考えるに至っている根拠の要素を見つめないとこの辺りの問題は分からないままだ。

 

で、ここで個人的に最も興味深いのは、「死の価値」についてである。

この辺りは、色々と聞いてみたり、考えてみるとなかなか興味深い。

簡単に、死刑と終身刑を考える。

死刑は分かりやすくその場で死ぬ。

終身刑は死ぬまで自由を剥奪される。

どちらも死ぬ事は変わりない(そもそも生命は死滅しなくてはならない物)が、

そこに至るまでの経路が異なる。

死刑で囚人が失う物は、寿命で和平世(今気づいたが、この世界の事をあたいは和平世(なごみせ)と呼んでいる。分からなければ現世と読み替えてくだされ)を去るまでの残りの時間。

終身刑で囚人が失う物は、同様に和平世を去るまでの自由全てである。

ここで、死刑に再度目を向けると、死刑もある意味、和平世を去るまでの自由全てを剥奪されていると考える事ができる。

 

では違いは何かと言えば、自由を剥奪されている現実を囚人が認識できるかどうかである。

逆を返すと、終身刑は囚人に「和平世を去るまでの間の不自由」を与える刑であると言い換える事ができる。

となると、この2つでもめている人は、「不自由を与える事」にどれだけの重きがあるか、という点で少なくとももめている事と考える事が可能である。

一応、この考え方にも怪しいところはあって、「生命を剥奪する事以上の不自由があるのか」という反論があってもおかしくないのだが、現状我々は死後になっても自我が存続するかどうかを観測できていないし、そもそも死後自由であるか不自由であるかも観測できないので、その事は考えてもあまり議論全体が前進するとは思えない(し、そもそも死後の自由不自由とは一体何なのだろうかと)。

 

長々と適当な事を言って、結局何が書きたいのかというと、「死の価値」という事について色々聞いて回ると、ある人が持っている「死の価値」というのは、「生ある中での価値」に相当左右されている、という事が何となく分かる、という事である。

仏教の考えに「生きる事は死ぬ事」という物があるが、なるほど頷ける物なんだなぁ、と。

 

あ、あたいは死後の世界はあると思ってるよ。

そうじゃないと、創作世界で多元宇宙なんて作ろうと思わないからね。

それに、あたいの自我が今のあたいだけで完結して他の一切に影響を与えないなら、あたいはきっと非道の限りを尽くしてでも今の自分がしたい事を精一杯するだろうしね。

死後の世界を考えるのは、今の世界の自分の行いを戒める1つの方法ってのがよく分かるね。

 

結局最後まで話があっちこっち飛んだけど、ここは自由帳なので、なんでもありという事にしておく。

発想が自由でない限り、新しい物は生まれないからね。