無理解の逆価値仮定
色々とうまくいかないで少々自棄になっている。
こういう時にこそここで何か書くべきだと思った。
だが、こういう状況なので必然的に書く事は重たくなる。許せ。
知っての通り、神宮外苑であまりに居た堪れない悲惨な事が起きてしまった。
概略を述べると、神宮外苑で開かれていた芸術のイベントで、
大学生が製作した、木造のジャングルジムに大鋸屑を詰めたような作品から出火し、
中で遊んでいて逃げ遅れた男児が亡くなってしまったのだ。
出火原因は、空が暗くなってから、展示物の製作者である大学生が点けた、作品内の白熱電球であったなどと考えられているようである。
投光器を高温になる上向きに 危険性認識か調べ | NHKニュース
ご存知の方も多いだろうが、この事故を巡って、多くの議論や非難がされている。
よく聞く声は和平世の人間の大半が考える事そのものだ。
「大鋸屑の中で白熱電球点けたら燃える事ぐらい分かるだろう」
その通りである。事故の概要が伝えられた時あたいも全く同じ事を思った。
だが、それが分からなかった人がいたからこの事故が起こってしまったのだ。
20年近く生きていて、「白熱球は高温になるから近くの大鋸屑が燃えるかもしれない」という事に、この学生達は誰一人として思い当たらなかったが為に、失われるにはあまりに幼過ぎる生命が失われてしまったのだ。「何が事故だ、こんな物は人殺しだ」と罵る声がツイッターのタイムラインに回ってくるその気持ちも分からんではない(が、これは事故である)。「無知は罪」とはよく言った物だ。
もう少し落ち着いた賢者の声に耳を傾けると、興味深い問題が見えてくる。
「LED電球が普及して白熱球に触れる機会が減った今、白熱球の性質を知らない世代が増えてきているのかもしれない」というのがその声だ。
なるほど、注目しなくてはいけない視点であろう。
「無知は罪」という言葉は、使われる状況などを考えてみると、別の言葉に言い換える事ができそうだ。
今これを読んでいる奇抜な方の中で、更に奇抜かもしれない人を探してみよう。
「わたしはげんきです」と、手持ちのガラケーかスマフォで入力できない方はいるだろうか。
恐らく、大半の方は「玉蒟蒻を肺に詰め込まれたいのか貴様は」とお思いになるだろう。
では次に、同じ事をポケベルで伝えたい場合に、どう打ち込めば良いのか今すぐに分かる方はいらっしゃるだろうか。
今でこそ
こういった物があったりするので、すぐに「0141326124040322440433」であると分かるのかもしれないが、何も見ないでこれを刻める人は、ポケベルがPHS、ひいてはその先にある今の存在に取って代わられた今、決して多いとは言えないだろう。
だが、これが分からなかった人を前にして、「お前はそんな事も知らないのか」と言えるのは1990年代から2016年現在に時間超越してきた人間だけだろう。
今の人間がそんな事言われれば「普通知らねぇよそんなもん」と一蹴して終了である。
そんな時に「無知は罪」などと口走ろう物なら、「お前が自慢したいだけだろそんなの」で終わりだ。
大半の事が知らない事を知らないでいたって、その事を詰る者は少ないだろう。
ここまで回りくどく言われなくとも、大半の方はもうお分かりだろう。
「無知」である事を詰られるのは、無知でいたその事実を大半の人が知っている場合だけだ。
人間の世界に多くの論争をもたらす、「常識」という奴である。
知っての通り、この「常識」という輩は可変である。
ゲーム好きのあたいはゲームくらいしか話せる事がないのでゲームで話をしよう。
レースゲームが多分分かりやすい。
本当に最初期のレースゲームと言えば、画面見下ろしで2D描画の車を動かし、前からやってくる障害物を避けるような代物だ。
それが進化して、平面を変形回転させて擬似的な3Dが生まれた。
何の事か分からない人は、「スーパーマリオカート」などを思い浮かべて頂ければよいだろう。
そして次には3Dポリゴンの車(やそうじゃない物)が走るようになった。
簡単に言えば箱が走っているような物だ。だがそれでも大きな感動があった。
そして時が経つにつれ、箱の角の数はどんどん多くなり、曲線へと姿を変えた。
そして今やどうだろう。一瞬どころか暫くの間、実写と見間違う程の車が、これまた実写と見間違う程美しい風景の中を駆け抜けてゆく*1。
ゲームという、関わらなくても最悪どうにでもなる世界ですら、「常識」の変革は何度も起こってきた。
これが現実になればどうだろうか。様々な「常識」が、日々移り変わってしまっている。
義務教育として学校で教えられた事だって例外ではない。
1つの無知によって、尊い生命が失われてしまった事は無念でならない。
多くの人が知っていた事を知らなかった事実を詰る声があるのも仕方のない事と言えよう。
だが、これから先、その事を知っている人は減ってゆき、知らない事が普通になってしまうかもしれない。
知らない事が普通になったとしても構わない事もあれば、そうでない事もある。
きっとこの先、何が常識として残すべき事で、何がそうでないのか、真正面からぶつからなくてはならない時が来るのだろう。
この事故は、そんな事を伝えてくれたように思う。
案の定まとまりがないが、ここはまあそういう場所である。
追記に、この事について書いておこう、と思ったもうひとつの理由を書いておくが、
読んでいて苦痛に感じられるかもしれない事を書かねばならないし、上記の事について考えるに際して何の関係にもならないので、読む場合はそれなりの覚悟をするように。
この「もう一つの理由」なのだが、書くべきかどうか実は相当に迷った。
だが、その理由が決して無視できない程の影響を自分に与えたので、
無念を忘れない為に書いておく事にする。
あたいの無念をあたいが忘れない事で和平世にとって何の意味があるのかは分からないが、そうしなくてはいけないような気がした。
ここまで踏み込んだ人の中に、「なんで事故の記事を3種類も載せているのか」と思った人はいるだろうか。
これから理由を話すに際し、東洋経済オンラインの記事に書かれている、「ある具体的」な情報が関わってくるから、冗長にいくつも記事を載せたのだ。
本題に入る。
この事故の様子を収めた動画が、現場にいた人間によって収められており、作品が炎上し、人だかりが出来ている様子を映した物などがネットに落ちている。
これらの動画がアフィリエイト目的で転載されていたりする事に対する憤りを、先日、研究室の一つ上の人が話してくれていた。
その事に対する憤りはあたいにもあるが、それは大きな理由ではない。
問題は、こうして転載されている動画の中のある1種類である。
その動画は今でも転載されており、調べれば出てくるが、調べない方がいい。
その動画は、展示物の火が殆ど消し止められた所で、展示物を横転させて中心部分を見えるようにする活動の様子が映っている動画だ。
これだけ読んで、「あ?」と思った貴方、貴方は正しい。
展示物の火は少なくとも20分近く燃えていた。
逃げ遅れた男児は中心部分にいた。
火を消した後で展示物を横転させたらそこに何*2があるのかは、お察しの通りである。
この動画、報道でも使われており、その際にはモザイク処理がかけられているのだが、ネットには一切の処理がかかっていない、生の動画が上がっている。
男児の父親と思われる男性も映っているが、その様子があまりに居た堪れなかった。
こんな事を書いている時点で、自分も相当に薄情で偽善者なんだな、という理解をしている。
というよりかは、その動画を見て、そう思った時に既にそう思った。
同時に、こんな悲惨な事、この和平世で何度もあって良い事でない、と思った。
斯様な事故を起こさない為、責めるべきは本当に個人の無知なのかどうか。
そう思って、思った事を書き残しておこう、とそう思ったのだ。
それが正しいかどうかも分からないし、本当に役立つかも分からない。
だけども、書いておかなくては、いけないような気がしたのだ。
ここに書いた所で明確に何が変わる訳でもない事は理解している。
和平世に対して何の力ももたないあたいができる事は、
彼が向かった明天で、彼が多くの祝福に恵まれる事を祈るばかりである。