失意の第一欠如公理
やあ、あたいだ
ちょっと色々書きなぐりたくなった。
時間の軸は、永劫に揺るがない。
必ずしも一定ではないかもしれないが、まあ大体一定の速度で進んでいる。
観測者の消失という形で止まる事はあっても実際問題として止まる事はない。
当然戻る事もない。
さて、よくある話をしよう。
過去に戻って自分の人生を改変できるなら、どれだけ改変したい場所があるだろうか。
過去に戻って改変する、というだけあって、創造主かなにかのように、自分の都合のいいように自由に書き換えられる訳ではない。
或いは、そもそも生まれる場所や境遇を変えるという事もしてはいけない。
ただ、あたいも含め、今この和平世や或いはその他のどこか、ざっくりとイェアスティアラのどこかに存在してこれを観測しているあなたは、きっと無意識的に、或いは有意識的に、はたまた潜在意識的に、いくつもの選択肢を運命に提示され、そのどれかを選んで生きてきた筈だ。
わかりやすく、あたいを例に考えよう。
あたいは肉体の年齢が10を数えるか数えないかくらいに剣道を始めた。
この時提示されていたのは「何かスポーツを始めろ」という問題であった。
今想うならば、この時あたいが返すべき変数は「任意の楽器を始める」であった。
例えこの問いを叩きつけた父親に刃を向けて血祭りに挙げてでもその変数を受け入れさせるべきであった。*1
或いはあたいがその逆の状況に陥ったとしても、最低限「何も始めない」という解を納得させるべきであった。
まあそんな感じに、「あの時ああしていれば或いは」、「あの時こう考えていれば」、もっと次元を大きくすれば、「これまでの間こんな風に考えて生きてくれば」、という物がきっとある筈だ。
で、まぁそんな具合で、何か過去に戻って変えたい物があるだろう、という話をするわけなのだ。
という訳でさっさとあたいの変えたい物を書いておく。
もっと不真面目に生きてくればよかった。
今でこそあたいは不真面目のキワミ、アーッ!みたいな生き方をしているが、
かつては真面目の極みの堅物であった。
大学に入った頃くらいもそんな感じだ。
カンニング等許容してはならないし、代返もあってはならないと思った。
自主休講も今でこそ戦略的にやったりするが、当時はあり得ない選択であった。
何故今こんな事を言うかというと、真面目で良かったと想う事は一度もないが、真面目でなければ良かった、と想う事は何度でもあったからだ。
寧ろ世界で得をするのは真面目でない人間だ。
本来それを世界は許してはいけない筈なのだが、どうもあたいの観測する世界はその限りではないらしい。
真面目である事がプラスに働くのは、世界の前提条件に「不正をした者は罰せられる」という物が存在する場合のみ*2だ。
その条件が存在しなければ、真面目な人間は損をする。
何故ならば、原則として真面目であるという事は基本的に自分の自由を捨てる事を意味している。
で、自由を何の為に捨てるかと言えば、他者、団体、企業、国家、世界、並世*3、明天*4、虚碧*5の為であり、だからこそ生命はその捨てられた自由に祝福を送り、真面目である事を賛美する。
一方で、生命の根源にある願いの一つは、自由を実現する事である。
それは、自分がしたいと思った事をできる事を意味する。
眠たい時にぐっすり眠られる事が幸せな事のように、したい事ができるというのは嬉しい事である。
自由を抑圧して得られる賞賛と、自由を享受して得られる幸福。
確かにベクトルの向きも性質も違ってはいるが、
人間の感情にとって正の性質を持つベクトルなのは違いないだろう。
ところで、自分のしたい事をする場合、
他の存在に不都合を生じさせる事はしばしばある。
「アグリコラ」に代表される、ワーカープレイスメントゲームは良い例だろう。
誰かが行ったアクションは行えない。
例えこのラウンドに野菜が欲しい奴が2人居たとしても、
アクションを行って野菜が貰えるのは1人しかいない。
アグリコラの場合、戦略の幅を広げる為、
「小さい進歩」と「職業」という存在によって戦略の幅を広げているが、
その戦略ですら他の奴とかち合えば戦争が起こる。
それで済めばよいが、最悪の場合まるで関係の無い所に被害が及ぶ事がある。
例えばこんな感じだ。
(あたいの手駒は白である。あたいは5番目に動いた筈なのだが、何故か牛が残っていなかった。これは許されざる反逆行為である。どうにかしてくれ。)
そんなわけで、自由に何かをした場合、誰かのマイナスになる場合がある。
ルールというのは普通、自由にされたらどっかにマイナスが飛んで困るのでそれを防ぐ為に設けられている。
設けたからには遵守させなくてはいけないから刑罰を設ける。
無論この刑罰も、軽すぎてしまっては効力を持たないし、重かったとしても執行されない場合は意味がない。
つまりは、罰則の存在しないルールには意味がない*6のである。
小学校のクラスの班掃除なんかで、掃除をサボった奴が出たから連帯責任で放課後居残りで掃除をしろ、なんて言った結果居残りで掃除をしているのがサボっていない人だけ、なんて事になったら元も子もないのと原理としては同じだ*7。
つまりは、ルールを守らない事で得られる利益を上回るような不利益が罰則で与えられない場合、ルールなんて守られやしないのである。
真面目である事で得られる利益などたかが知れている。
無論それはあたいが置かれ、観測する事になった状況がそういう物ばかりであったからだろう、と言われればその事は証明できないが、少なくともあたいが生きてきた中ではそのように感じる。
世界はなるようにしかならないとは思っているが、
果たしてそれが本来の在り方なのかどうかは、疑問である。
善意は果たして本当に正の性質を持つ物なのかどうか。
たまにはそんな事も考えてはみたい。
しばらくは卒業研究を具体的にどうやってやるかを考えなきゃならんだろうが。
プログラムを組んでいる間にキーボードクラッシャーにならない事を祈ろう。
*1:別に、剣道を始めた事そのものが大きな過ちであったとは思っていない。寧ろ、ある種、正解の1つであったとも考えられる。だが、それによって得られた物と、それを得る為に失った物の天秤が自壊した以上、これを正解と認める事は永遠にできないだろう
*2:「不正をしなかった者には賞賛が送られる」場合も満足する事はない
*3:へいせ、世界(宇宙)の集合体の事
*4:めいてん、並世の集合体。イェアスティアラはここに入る
*5:きょへき、明天の集合体
*6:憲法だけは相当に面倒な論議があったりした覚えがあるのでそれは例外にしておく
*7:あたいの実話。その不条理を訴え出た所「言っても聞かないから仕方ない」と返されて以来あたいは連帯責任というシステムが不倶戴天の敵になった。